終了挨拶メールとは関係ない話に発展してしまいますが、ここで気付きがありました。 「結論が分かっている場合は、結論を導き出す理論を構築することは容易である」ということです。詰め将棋などでも、詰むと分かっているから詰ませる方法だけを考えればよくなり、実際の対局に比べれば詰ませるのは容易になる、と。 しかしそうではない場合、例えばサイコロに出目の偏りがあるかないかわからない状態では「…このような理由で偏りがあるのだろう、あるのかもしれない」という考えにはなかなか至りません。そもそも、普通に生活していたら多くの人は疑問すら持たないと思います…。 最近、HDDレコーダーに自動録画されていた「レナードの朝」という映画を見ました。この映画は、臨床経験の無い研究一筋だった医者が数十年間植物状態の患者に対し、治療をあきらめた経験のある医者に冷ややかな反応をされながら、ゼロベース思考で試行錯誤しながら病気の治療に取り組んでいく話。この映画の主人公のレナードは治療が功を奏し30年ぶりに植物状態から目覚めるのですが、この映画を見たときも『これは生粋の研究者でなければ難しい、自分だったら「たぶんダメだろう」とやる前から諦めてしまうだろう』と思いました。 ついでに、私が購読しているメルマガ(夢を実現する今日の一言)の今日の言葉は「思い込みを捨てると、道が開ける」でした。そうそう、私がいいたいのもそんな感じ。 結論として、あらゆることを疑いゼロベースでものを考えることはとても重要だなと思いました。自分にどこまでできるかわからないけど、心がけたいと思いました。 あのサイコロの少しふざけたメールから、ここまで発展して考える人がいるとは故人(←死んでないけど)も考えていなかったでしょう。 |
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